本年2025(令和7)年は、松竹キネマ蒲田撮影所で女性脚本家の先駆けとして活躍した水島あやめが、撮影所に入所して100年という節目の年にあたります。
水島あやめは、1903(明治36)年7月17日に新潟県南魚沼市に生まれ、大正10年に上京、大正15年に蒲田撮影所に入所し、下丸子・久が原と大田区に20年間暮らしました。
この節目の年に、「蒲田映画祭」(大田観光協会主催)元プロデューサーの岡茂光氏と、水島あやめ研究家の因幡純雄氏に、松竹キネマ蒲田撮影所で輝きを放った女性の足跡をたどる貴重なお話をおまとめいただきました。
今回は、前編として、岡茂光氏より「映画女優ことはじめ ~松竹蒲田は百花繚乱~」をお届けします。
映画会社の老舗・松竹が最初の撮影所を蒲田に設立したのが1920年。設立に当たり創業者・大谷竹次郎が提唱したスローガンは「東洋のハリウッド」!稀有壮大なスローガンは、松竹が日本映画の近代化成し遂げるという野望の宣言でした。
この目的を実現すべく取り組んだ方策が、本場ハリウッドからヘンリー・小谷をはじめとする人材招聘と最新機材導入、新劇の風雲児・小山内薫を校長とする俳優演技学校の創設、大スタア依存からの脱却、脚本の充実等でした。そして、もうひとつ忘れてならないのが、映画専門女優の登用と育成を推進したことでした。
「松竹キネマ蒲田撮影所」で作られた最初の映画『島の女』(監督:ヘンリー・小谷)は準備不足もあって失敗に終わりましたが、唯一大成功だったのが日本初の映画専門女優・川田芳子の起用でした。
それまで日本の映画には、歌舞伎同様女性は登場せず、男の俳優が女形を演じていました。日本の映画ファンは、初めて見る映画専門女優・川田芳子の慎ましやかな美しさに目を見張ったのです。松竹が、設立後わずか3年ほどで業界随一の日活に肩を並べるようになった最大の要因が映画専門女優の起用にありました。
三代目の撮影所長・城戸四郎は、女性観客を増やすことが映画事業の発展に不可欠であり、そのためには女性ファンの心をつかむ映画が重要であると確信しました。そこで唱えたのが女性向きの脚本の充実でした。具体的には女性の共感を呼ぶ「母と子の愛情物語」(通称:母モノ映画)と男女の恋を織り込んだ軽やかな青春ドラマ製作を推進しました。そこには当然魅力ある映画女優が不可欠だったわけです。
1986年に公開された松竹映画(大船撮影所製作)『キネマの天地』は「松竹キネマ蒲田撮影所」を顕彰する娯楽映画として大ヒットしました。そのなかで、笹野高史演ずる熱烈な映画ファンは、次のようなセリフを言っていました。「女優は誰がいいかって?そりゃ、女優って言えば、なんといっても蒲田だ。あそこは、いい女優を揃えているからなあ」。
すなわち「女優の松竹」という言葉が松竹の代名詞となるほど、幾多の女優が、蒲田から日本を代表する大スタアとなっていきました。
ここからは松竹蒲田で活躍した数多くの女優の中から、私が選んだベストスリーをご紹介しましょう。
栗島すみ子は1921年『虞美人草』(監督:ヘンリー・小谷)で映画初出演ながら主役に抜擢されました。ヘンリー・小谷監督が『島の女』の汚名返上とばかり意気込んで挑んだ『虞美人草』は大ヒットしましたが、その最大の要因が瑞々しい栗島すみ子の魅力にありました。『島の女』の川田芳子の典型的日本美人に対して、栗島すみ子が持つチャーミングで明るく可愛いキャラクターは、日本中の映画ファンの心をわしづかみにし、「日本の恋人」と呼ばれるようになりました。すなわち栗島すみ子は日本で初のアイドル女優となったのです。今でも浅草に残る東京唯一のプロマイド屋、「マルベル堂」の記録によれば、彼女の全盛時代には、毎日2,000枚から3,000枚のプロマイド写真が飛ぶように売れたとの記録が残っています。
栗島すみ子がデビューした時に、会社から提示された月給が200円。これは当時の映画関係者、例えば助監督の平均が30円と比べ破格であり、大きな話題となりました。しかしながら、その後の彼女の活躍は、給料を遥かに上回る利益を松竹にもたらせました。まさに、彼女は松竹にとってなくてはならぬ「ドル箱女優」だったのです。栗島すみ子は、のちに夫となる池田義信監督作品をはじめ、小津安二郎の『お嬢さん』、『結婚学入門』、島津保次郎監督の『麗人』、牛原虚彦監督の『受難華』等、蒲田を代表する監督作品に次々と出演し、多くの映画ファンを魅了しました。
撮影所が蒲田から大船への移転を機に彼女は引退し、その後は幼いころから親しんだ日本舞踊の水木流宗家・水木歌紅として、全国3万人もの弟子を晩年まで指導してゆきました。有名女優の淡島千景、池内淳子、飯田蝶子等も、栗島すみ子の弟子として指導を受けていました。
1956年、栗島すみ子は、蒲田出身ですでに日本を代表する監督となった成瀬巳喜男のたっての願いで、20年ぶりに東宝映画の『流れる』に出演しました。
原作は幸田露伴の娘・文の自伝的小説「流れる」。この映画で栗島すみ子は、山田五十鈴、田中絹代、杉村春子、高峰秀子等のそうそうたる女優を睥睨するかのような圧倒的な存在感を披露しました。この作品に出演し、2016年第4回「蒲田映画祭」のトークショーに登壇された岡田茉莉子さんは、当時を振り返って語っていました。「『流れる』は東宝の作品ですけど、監督をはじめ出演者の多くが松竹に縁のある方々で、さながら同窓会の様に楽しかった。そして驚いたのは、あのときの栗島先生の威厳というか迫力が凄くて、さしもの田中絹代さんもたじたじとなっていました」。
彼女のお墓は池上本門寺。場所は奇しくも「流れる」の原作者・幸田文のお墓の程近く、生涯の伴侶だった池田義信(池田家)の墓と向かいあうように立っています。横には「栗島すみ子ここに眠る」の碑が建っていますが、刻み込まれた文字は九代目松本幸四郎の揮毫によるものです。
「松竹キネマ蒲田撮影所」で才能を開花させた田中絹代は、生涯正式な結婚を経験しなかったことから「映画と結婚した女性」と言われました。また、ヴェネチア、ベルリンをはじめ、名高い世界の映画祭で受賞した田中絹代は「真の国際女優」と高く評価され日本映画史にその名を燦然と留めています。
映画スタアとして成功する三要素は「素質」、「努力」、「運」と言われています。田中絹代が蒲田撮影所に入るきっかけとなったのが未曽有の自然災害、関東大震災に端を発したのも「運」と言って良いのでしょう。1923年の関東大震災で蒲田撮影所の機能が麻痺したことで、松竹は急遽、京都に仮撮影所を設け映画製作を続けていきました。このとき田中絹代は14歳。山口県の下関から大阪に移り住んだ彼女は、貧しい家計を助けるために琵琶少女歌劇団で働いていました。生来の映画好き、特に『虞美人草』の栗島すみ子に感激し、子役の高尾光子に憧れた彼女は親の反対を押し切って京都撮影所で働くことを決意し、その後、1925年復旧した蒲田撮影所に移籍することとなりました。
田中絹代の身長は150センチほどと目立たず、栗島すみ子と比較するまでもなく美人ではありません。彼女は一見平凡な女性、取柄は庶民的な親しみやすさにありました。これが、城戸四郎が提唱していた「松竹蒲田調」にピタリと当てはまりました。城戸四郎は常々「松竹蒲田調」についてこう語っていました。「映画は歌舞伎のような奇想天外な話でなくて良い。人々の日常生活に起こり得る出来事をさりげなく描き、お客様に共感を持っていただき、その結果、明日への希望につながることが大切なのです。これが松竹映画の基本的な考え方です」。田中絹代は、平凡な生活を送る一般女性にけだし最適なキャラクターだったのです。
城戸所長の考えをよく理解していた五所平之助監督は田中絹代に注目し『恥ずかしい夢』(1927年)に主演抜擢しました。彼女が演じた若い芸者・小鈴の可愛らしさもあって映画は大成功。続く、池田義信監督の『真珠夫人』では憧れの栗島すみ子の娘役を演じ、女優としての地位を築いていきました。彼女の才能が完全に花開いたのが、日本初の全編トーキー映画『マダムと女房』(1931年)でした。
もともと、田中絹代は出演候補でしたが下関訛りのセリフが危惧され外されました。ところが、予定していた主演女優が不祥事を起こし田中絹代に主演が回ってきました。彼女は二人の小さな子供を抱える、どこにでもいる庶民の女房を巧みに演じ、下関訛りのセリフまでもが親しみを増幅させたと大好評となりました。こうして、田中絹代は松竹蒲田の大幹部に出世していきました。田中絹代は、まさに「松竹蒲田調」が待ち望んでいた女優だったわけです。
彼女は生来負けず嫌いの性格なのですが、出演映画の役作りにかける執念、努力は人並外れていました。それが発揮されたのは戦後の1950年代。そのころ田中絹代に対しての評価は芳しいものではなく「落ち目」「老醜」のバッシングが飛び交っていました。そこを逆手にとった彼女は溝口健二監督の『西鶴一代女』に出演しました。

彼女の役は華やかで、もてはやされた御殿女中が数奇な運命をたどり、遂には街で男に声をかける年老いた街娼を演じたのです。まさに「老醜」をさらけ出した演技は注目を浴び、ヴェネチア映画祭で受賞の栄誉に輝きました。そして、1974年、65歳の時に出演した映画が『サンダカン八番娼館 望郷』。このとき、田中絹代は「元・からゆきさん」の老婆になりきるため、前歯4本を外して出演し、ベルリン映画祭で日本女優として初の主演女優賞を獲得しました。
田中絹代は67歳になった時に脳腫瘍を発症し入院、その2,3日後に視力を失いました。彼女がこの世を去ったのは3か月後のことになるのですが、その寸前まで見舞いに来た映画関係者に「目が見えなくても出来る役はあるのだろうか?」と映画出演への執念を燃やしていました。まさに田中絹代は「映画と結婚した女性」であり、その原点は蒲田にあったのです。
「子役出身に大女優・名優無し」。洋の東西を問わずに言われている映画界の格言的一文です。確かに幼いころ大人たちを驚かせた数多くの子役は、年を経るうちに輝きを失っていきました。しかし、高峰秀子は数少ない例外で、子役の時に得た女優魂を糧に大女優として開花していきました。
高峰秀子は函館の生まれ。複雑な家庭環境の中で、幼くして母を亡くし、養母と二人で東京に転居しました。彼女の映画人生は「ひょんな」ことから始まりました。5歳の時に大家の友人に連れられて松竹蒲田撮影所見学に行ったところ、たまたま行っていたオーディションに飛び入りで参加、野村芳亭監督の目に留まり『母』でデビューしました。
本作品は高峰秀子の愛くるしさが話題となり、異例の長期興行を記録する大ヒットとなりました。「天才子役現る! 人懐こい笑顔、哀しさを訴える泣き顔。感情豊かな表現が演技だとすれば驚き以外の何物でもない」。当時の批評の要約です。
高峰秀子の当時の月給は35円。これは大卒初任給が50円と比べれば遜色ありません。しかし、養母二人の生活収入はほかになく、有名になるにつれて支出もかさみ生活は火の車でした。そんななかで、彼女には次々と映画出演の話が続き秀子の毎日は過酷なものとなっていきました。そのころ、二人は北蒲田に住み、秀子は蒲田尋常小学校に入りますが、過酷な撮影は彼女を満足に学校に通わせてくれませんでした。当時の記録によれば出席は月に2,3日程度だったそうです。これは彼女自身の言ですが、漢字の読み書き、算数の足し算引き算等は、結婚後に夫の松山善三(脚本家・映画監督)から手ほどきを受けました。
13歳になった高峰秀子は松竹からP.C.L(のちの東宝)に移籍しました。その最大の理由は金銭的事情にありました。このころ、北海道から祖父家族郎党8名が有名となった秀子を頼って東京に出てきました。つまり、10代の前半にして秀子は、養母も含め9名の大人・子供を養わねばならなかったのです。東宝の提示した条件が、月給100円、撮影所近くの成城に住居提供、そして文化学院への通学許可。彼女は娘心にお金のために世話になった松竹を離れることは本意ではありませんでしたが、生活維持のため東宝移籍を決意したのです。このとき、松竹大船撮影所長の城戸四郎は、東宝への移籍話が持ち上がった時に何故報告しなかったのだと、大激怒したと伝わっています。
高峰秀子の生涯出演作品総数は400本近くと群を抜き、演じた役柄も極めて多岐にわたっています。『カルメン故郷に帰る』では人の好いストリップ・ダンサー。
『笛吹川』では36歳にして85歳の老婆を演じる。『女が階段を上がるとき』では銀座の夜の世界を生き抜くバーのマダム。『喜びも悲しみも幾年月』では全国の灯台を守る夫を支える妻。『銀座カンカン娘』ではブギの女王笠置シツ゚子と共演し歌い踊る、等々枚挙にいとまがありません。そのなかで代表的な2作品が『浮雲』と『二十四の瞳』となるでしょう。前者は松竹蒲田ですでに頭角を現していた成瀬巳喜男の作品。高峰秀子は煮え切らない男にどこまでもついていった結果、命を落とす薄幸な女性をきめ細かく演じました。蒲田時代に入社し大船で活躍した木下恵介の『二十四の瞳』では、瀬戸内海の小豆島を舞台に新任の小学校の先生を演じ、12名の教え子との戦前・戦後の交流を時には明るく、時には切々と感情豊かに演じました。
高峰秀子に驚かされるのは、基礎教育を満足に受けられなかった彼女がのちに頭角を現した「文才」です。彼女はいくつもの著作本を世に出し、遂には自身の一生を綴った「わたしの渡世日記」で日本エッセイスト賞を受賞しました。もうひとつの驚きは、映画に対して確固たる信念を持ち、自分が正しいと思うことはひるむことなく主張した心の強さです。
事件が起こったのは1965年、市川崑監督の『東京オリンピック』作品試写会の席上でした。見終わったオリンピック担当国務大臣の河野一郎の言葉によると「市川崑はオリンピックの汚点、けしからぬ。撮影をやり直せ」と激怒しました。怒った理由は、作品の中に日本選手の活躍が、期待したほど扱われていなかった点にあったと言われています。このとき、高峰秀子は面会を求め、実力大臣・河野一郎と二人だけの会談が行われました。席上、秀子は映画芸術の観点から作品の素晴らしさを訴えた結果、大臣は前言を撤回しました。そのとき河野一郎は、高峰秀子の女性らしからぬ芯の強さと、舌鋒の鋭さに舌を巻いたと伝わっています。
「松竹キネマ蒲田撮影所」(蒲田撮影所)は1936年に大船に移転しますが、ここでも「女優の松竹」のキャッチフレーズを更に高めていきました。名匠・小津安二郎の傑作、『東京物語』はじめ『麥秋』、『晩春』等に出演した伝説の女優と言われる原節子。
今でも活躍を続け、「蒲田映画祭」(2013年~2020年)のトークショーで観客を喜ばせた有馬稲子、香川京子、岡田茉莉子、岩下志麻、倍賞千恵子等が数多くの松竹映画に出演しました。
まさに、松竹の蒲田・大船撮影所は、百花繚乱の艶やかさを誇っておりました。
蒲田で活躍した女性は女優だけではありません。城戸四郎の掲げた「脚本の充実」と「女性観客向きの映画提供」を推進するため一人の女性が脚本部に採用されました。彼女の名前は、水島あやめ。日本の女性脚本家の先駆者として活躍し、女性の新たな進路を開拓していきました。その人については、次号で因幡純雄さんより詳しくお伝えします。
参考文献:
「人物・松竹映画史」 蒲田の時代 升本喜年
「松竹蒲田撮影所とその附近」 月村吉治
「花の嵐も田中絹代」 古川薫
「わたしの渡世日記」 高峰秀子
画像提供:
松田集 映画演劇資料コレクター