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歴史・史跡

大森

歴史・史跡

八幡海岸海水浴場跡

Yawatakaigan kaisuiyokujo ato

明治24年(1891年)ごろ、八幡海水浴場が開設された。東京近郊の海水浴場として、同43年(1910年)ごろに最盛期を迎えました。

磐井の井戸

iwai`s well

この井戸の水を飲むとき、心が正しければ清水、邪心があれば塩水、という伝えがある。第一京浜国道(昭和2年、1927年完成)として東海道が拡幅され、もとは境内地にあったものが、神社前の歩道に残った。区指定文化財。

密厳院・お七地蔵

Mitsugenin ・Oshichijizo

八百屋お七は恋のために放火し、江戸の大火を引き起こしたため、鈴ヶ森刑場で処刑された。その霊を慰めるために、お七の住んでいた小石川の念仏講の人々が、三回忌にあたる貞享2年(1685年)に建てた。区指定文化財。

密厳院・庚申供養塔

Mitsugenin ・Koshin Kuyoto

1662年に建てられた、区内で2番目に古い庚申塔。手指を法界定印に結んだ阿弥陀像が半肉彫りされている。区指定文化財。

旧東海道・美原通り

Kyutokaido・Miharadori

大正7年(1918年)の第一京浜国道建設工事の際に、旧東海道が拡張されたが、美原通りは商店街だったので、ここを避けたため、今でも旧東海道のおもかげを残している。

海難供養塔碑

Kainankuyotohi

海難事故にあった人々を供養するため、安政2年(1855年)に建てられた。江戸市中や神奈川に及ぶ魚介業者をはじめ、町人、武士、役者等約300名の名が刻まれ、東京湾沿岸でも屈指の規模を持つ。区指定文化財。

厳正寺・梵鐘

Gonshoji Temple・Temple bell

1772年に大森村などの檀信徒たちが寄進。銘文に「堀之内十三日講」等の講名が刻まれている。区指定文化財。

漁業記念碑

Gyogyokinenhi

大森の海苔産業に関する記念碑。大森児童館前に昭和39年(1964年)、海苔養殖の終業を記念して建てられた碑がある。

池上道道標

Ikegamido Michishirube

享保14年(1729年)に、大森村の甲子講という日蓮宗の信者たちが建てたもの。池上本門寺に至る道は、東海道から今の京急梅屋敷駅あたりで分かれており、この道標がその分かれ道に建てられていた。区指定文化財。

東海道一本燈籠台石

Tokaido-ippon-torodaiseki

江戸後期、東海道筋に通行人の目印として、大森村を中心に近郷、江戸、川崎などの富士講の人々によって建てられた常夜灯。台石の正面には、富士山が庚申の年に出現したという伝説を表した彫刻が施されている。区指定文化財。

西南、日清の戦没碑

The southwest and war monument of Nissin

明治10年(1877年)西南戦争と、同27年(1894年)~28年(1895年)の日清戦争に、この地域から従軍し、戦死した人々を慰めるために建てられた。ともに山県有朋が碑銘を書いている。なお、大森警察署のある場所には、かつて旧大森区役所が建っていた。

森ヶ崎鉱泉源泉碑

Morigasaki kosen gensenhi

森ケ崎鉱泉は、明治32年(1899年)に発見され、その効用が認められたことを記念して、明治34年に記念碑が建てられた。明治35年ごろには最初の鉱泉旅館が建ち、以後次第に鉱泉街となり、東京近郊の臨海行楽地として栄えた。区指定文化財。

墜落事故慰霊地蔵尊

Tsuirakujiko ireijizoson

昭和13年(1938年)8月24日、森ケ崎で航空機の墜落事故が発生し、死者85人という大惨事となった。現場に近い法浄院には、事故の犠牲者を供養するために建てられた地蔵尊が残されている。

羽田道

Hanedamichi

東海道から内川橋際(大森東二丁目2番先)で分かれ、羽田方面に至る道。分岐点付近に、歌舞伎にも出てくる「駿河屋」という旅籠があったことから「するがや通り」とも呼ばれる。内川橋から大鳥居交差点(東糀谷三丁目3番先)まで旧道が残っており、産業道路ができるまで、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路だった。

蒲田

歴史・史跡

石鳥居(稗田神社)

Stone torii (Hieda Shrine)

寛政12年(1800年)に北蒲田村の氏子によって寄進された。区内の石鳥居の中で古いものの一つです。なお、稗田神社は、平安時代に編さんされた『延喜式』に記載のある古社。また、『三代実録』に貞観6年(864年)「武蔵国従五位下蒲田神を以って、並びに官社に列す」とあるのが、この神社であろうといわれる。

開山供養塔(栄林寺)

Kaizankuyoto (Eirinji Temple)

栄林寺の開基である千如院日好の供養のために、日英が寛永三年(1626年)に建立した。時代的に古く、塔身が二石になっているのも様式的にみて珍しいもの。

行方弾正直清供養塔(円頓寺)

Namekata Danjo Naokiyo kuyoto (Entonji Temple)

行方弾正直清は、後北条氏の家臣で、六郷領を支配していた領主。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、討ち死にしたと伝えられる。この石塔は弟の日芸が、直清や行方一族の供養のために建てた。

民間信仰(椿神社)

Folk belief (Tsubaki Shrine)

この地域には、風邪やのどの病気にかかると、この神社の境内の小堂にかかっている麻糸を首に巻いたり、足の病気にはわらじを奉納したりして平癒を祈願することが行われてきた。神社なのに線香を供えるという神仏混交の習俗も、伝えられている。

梅屋敷と和中散薬売所跡

Umeyashiki/Wacyusanyaku baisyoato

文政年間(1818年から1830年)の初めに、和中散という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開いた。かつては蒲田梅屋敷として、亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。現在公園になっているところは、その屋敷跡の一部。

松竹キネマ蒲田撮影所跡

Shochiku Kinema Kamata satsueijoato

大正9年(1920年)から、大船に移転する昭和11年(1936年)まで、蒲田の地で夢を作り続けた松竹キネマ蒲田撮影所の跡。当時の蒲田周辺には俳優も多く住み、「流行は蒲田から」と言われるほどの華やかさと活気にあふれていた。現在は跡地に区民ホール「アプリコ」が建っている。敷地内には昭和61年(1986年)に制作された映画『キネマの天地』で使用された松竹橋(蒲田撮影所前に架かっていた橋を再現したもの)が残されている。

旧呑川の流れ

Flow of Kyunomikawa

氾らんが多発したことから、昭和16年(1941年)に現在の新呑川になった。その分岐点は、東蒲中学校の裏になる。

日本船用ディーゼル機関発祥の地

Place by the diesel engine origination for Japanese ships

大正10年(1921年)、新潟鉄工所蒲田工場が建設され、漁船に使用するための日本初の産業用ディーセル機関が誕生した。

羽田

歴史・史跡

権助橋

Gonsukebashi

羽田道の浜竹用水に架けられた橋の跡。橋名の由来は不明。浜竹用水は、六郷用水の末流で、南前堀に流れ込んでいた。

牛頭天王堂(自性院)

Gozutennodo (Jishoin )

向背(正面の張り出した部分)の軒下には弁財天のみごとな彫刻が施されている。区内では、数少ない江戸末期の精巧な社殿彫刻で、昭和4年(1929年)に大森の弁天神社から移築された。区指定文化財。

富士塚(羽田神社)

Fujizuka(Haneda Shrine)

富士講の人々が、明治の初めに築いた人工の富士山。俗に「羽田富士」と呼ばれる。この山には登山道もあり、頂上に浅間神社がまつられ、富士山と同様に造られている。かつては毎年山開きのときや、富士登山ができないときなどに代わりにこの塚に登った。

レンガの堤防(多摩川沿岸、羽田)

Embankment of brick(Tamagawa coast and haneda)

かつての多摩川は、かなりの暴れ川で、たびたび洪水を起こした。大正7年(1918年)から行われた河川改修工事で、このレンガ造りの堤防が築かれた。

多摩川渡し跡(大師の渡し)

Tamagawa watashi ato (Daishino watashi)

江戸時代から、昭和14年(1939年)に大師橋ができるまで、川崎大師に参詣するための道としても大いに栄えた。

多摩川渡し跡(羽田の渡し)

Tamagawa watashi ato(Hanedano watashi)

羽田と川崎との間の渡しは、川崎大師参詣の要路だった。羽田の渡しは、「六左衛門の渡し」とも呼ばれ、昭和14年(1939年)に大師橋が開通するまで利用された。

鈴木新田跡

Suzukishinden ato

羽田六丁目東側は、もとは多摩川の河口にできた低湿地で、扇浦、要島といわれてきた。天明年間(1781年から1789年)に、羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門が新田を開発したので、「鈴木新田」と呼ばれた。区指定文化財。

区内最古の石鳥居(北糀谷 子安八幡神社)

Stone torii in the oldest in a ward(Kita-Kojiya Koyasu Hachiman Shrine)

安永3年(1774年)に、この神社の氏子たちが、下袋村(注釈)の領主小泉藤三郎包教の武運長久を祈って奉納した。小泉氏は、初代次太夫吉次が六郷用水を開削した功績により、幕末まで代々この地の領主を勤めた。石造鳥居(明神型石鳥居)としては区内最古のもの。区指定文化財。

廃寺円竜寺墓地(小泉次太夫一族の墓)

Haideraenryuji Temple graveyard (grave of Koizumi Jitayu familiy)

六郷用水を開削し、この地を知行地とした小泉次太夫の一族などの墓石が、廃寺円竜寺の旧墓域の一部分にまとめられている。

洗足

歴史・史跡

石橋供養塔

Ishibashi Kuyoto

安永3年(1774年)に、石橋の安泰と通行人の安全を祈って、建てられた。石橋供養塔には、他の民間信仰の供養塔を兼ねたものが多く、交通上の安全祈願だけを目的としたこの塔は珍しいもの。

馬頭観音供養塔

Batokanzeon kuyoto

天保11年(1840)に、飼い馬の健康と死後のめい福、交通安全を祈って、地元の馬医師や馬の持ち主らにより建てられた。もとは中原街道と現在の目黒区碑文谷から池上に至る道との交差する所に、道しるべを兼ねて建てられていたと考えられる。

勝海舟夫妻の墓

Mr. and Mrs.Katsu kaishu's grave

勝海舟(1823年から1899年)は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔に憩い、風景にうたれ、その縁でここに別荘を構えた。後に海舟の遺言で、屋敷裏の台地に葬られたと伝えられます。妻である民子の墓は、後に青山墓地から移設された。区指定文化財。

西郷隆盛留魂碑

Saigo Takamori ryukonshihi

明治12年(1879年)、戦死した西郷隆盛(1827年から1877年)をいたみ、勝海舟が私費で建てた碑。大正2年(1913年)に現在地に移設された。

中原街道改修碑

Nakaharagaido kaisyuhi

中原街道の沼部、石川、千束付近は、急坂が多く物資の輸送や交通の難所。この石碑は、大正6年から12年(1917~1923年)にかけて改修工事が行われたことを伝えている。

庚申塔(南千束二丁目)

Koshinto (2-chome Minami-Senzoku)

元は延宝6年(1678年)に建てられ、文化11年(1814年)再建。中原街道から九品仏に至る道の分岐点に、道しるべを兼ねて建てられたもの。江戸時代後期の特色を持つ角柱型の文字塔。区指定文化財。

庚申供養塔群(雪谷八幡神社)

Koshinkuyoto group (Yukigaya Hachiman Shrine)

天和元年(1681年)から安政4年(1857年)までの間に、雪ヶ谷村の人々が建てたものです。道しるべを兼ねたものや、日蓮宗系のものなど7基ある。もとは村内各所に建てられていたが、後に現在地に集められた。区指定文化財。

鳳凰閣(旧清明文庫)

Hookaku (Kyuseimei bunko)

昭和8年(1933年)、清明会が文庫兼講堂として建てたもので、昭和初期の会館建築の一つとして貴重。正面玄関から立ち上がる4本のネオゴシックスタイルの柱型やアール・デコ調の建具などに特色がある。国登録文化財。

下丸子

歴史・史跡

久原小学校内遺跡

Remains in Kugahara Elementary School

氷河時代末期(約25,000年前から約12,000年前)に営まれた区内最古の遺跡。昭和53年(1978年)、関東ローム層の中から焼礫が発見された。調査の結果、当時の人々(新人)が使用した調理場の跡である焼礫群、炉跡、叩き石、台石などの道具類、使用した礫器、皮はぎ器(スクレイパー)などの石器類が出土した。

久が原遺跡

Kugaharaiseki

昭和2年(1927年)区画整理事業中に竪穴住居跡と弥生土器が発見されて以来、幾度となく調査が行われた。竪穴住居跡からは炭化した米や植物などが発見され、弥生人の農耕生活、当時の生活状態や日常文化を知ることができた。これらの弥生土器は「久ヶ原式土器」と呼ばれ、南関東地方後期土器編年基準の一つとなっており、遺跡は南関東後期弥生文化の標準遺跡。

千鳥窪貝塚

Chidorikubo Kaiduka

昭和23年(1948年)の調査で、縄文時代中期(約4500年前)に埋葬された男性の人骨が発掘された。頭部が鳥の形をした鹿角製の短剣様の角器を胸に抱いている。これは全国的にみて30例に過ぎず、埋葬された人は呪術師か村長と思われる。この貝塚からは、土器、石器、角器、貝類等も出土し、貝類ではハマグリなど、16種類あった。このほか大形のサンゴ塊が出土し、当時の気候が今より温暖であったことがわかる。

江戸後期の社殿(久が原 東部八幡神社)

Shrine pavilions of the Edo latter period(Kugahara tobu hachimanjinja)

拝殿は文久2年(1862年)に建てられたといわれ、江戸末期の神社建築の特色を伝えるもの。入母屋造りの屋根は、現在は銅板にふき替えられている。区指定文化財。

道祖神(おしゃもじさま)

Dosojin(Oshamojisama)

道祖神は、道路の悪魔を防いで道行く人をお守りする神様。ここの道祖神は「おしゃもじさま」と呼ばれている。

庚申供養塔(矢口三丁目・円応寺)

Koshinkuyoto (3-chome Yaguchi・ Ennoji Temple)

寛文12年(1672年)に、地元の古市場村の人々が建てたもの。青面金剛像を彫った庚申塔としては、区内で最古のもの。区指定文化財。

武家屋敷門(蓮光院)

Bukeyashiki gate (Renkoin )

小大名格の武家屋敷門としては格調正しい様式を備えており、構造・形式ともによく保存されている。江戸時代末期の建築と推定され、現在地に移築されてからは、寺の山門として使われている。都指定文化財。

頓兵衛地蔵

Tonbejizo

新田義興(1331年から1358年)の謀殺に荷担した船頭が、その罪を悔いて建てた地蔵と伝えられる。頓兵衛は、平賀源内の浄瑠璃『神霊矢口渡』に登場する人物。

光明寺道標

Komyoji Temple michishirube

この道標は、区民プラザから環八に出る道の角に立っている。嘉永4年(1851)建立。折れた上部は光明寺内に保管されている。

矢口の渡し跡

Yaguchino watashiato

「矢口の渡し」の位置は、多摩川の流れの変化に従って変わった。昭和24年(1949年)に多摩川大橋が完成するまで、この付近が区内で最後の渡船場として、利用されていた。区指定文化財。

原村梅林(跡)

Haramura bairin (ato)

明治16年(1883年)に原清次郎という人が、この地(当時は原村といった)に梅の木を300株植え、やがて梅の名所として知られるようになった。

田園調布

歴史・史跡

多摩川治水記念碑

Tamagawa chisuikinenhi

昭和11年(1936年)、多摩川の治水工事の竣工を記念して建てられたもの。工事は、大正7年(1918年)羽田の河口部から開始し、昭和9年(1934年)世田谷区砧までの間が完成した。

愛桜碑

Aiohi

昭和4年(1929年)に、多摩川の新堤防の補強と沿岸美化のため、桜樹4,000本を植えられたことを記念して建てられた。

多摩川渡し跡(丸子の渡し)

Tamagawa watashiato (Marukonowatashi)

昭和9年(1934年)に中原街道が改修され、上流に丸子橋ができるまで、長い間利用された。江戸時代初期には参勤交代の道路として利用された。

庚申塔(田園調布 密蔵院)

Koshinto (Denenchofu Mitsuzo-in Temple)

寛文元年(1661年)に建てられた区内で最も古い庚申供養塔。舟型の石に地蔵立像を半肉彫りした、江戸初期の典型的な様式を示している。区指定文化財。

社殿の彫刻(御嶽神社)

Sculpture of shrine pavilions (Ontake Shrine)

御嶽神社の本殿の周囲には、みごとな彫刻が施されている。作者は藤原篤意と伝えられ、社殿と同時期の天保2年(1831年)に製作された、浦島太郎、養老の滝、司馬温公甕割りなど和漢の物語、故事にちなんだもの。区指定文化財。

題目講中逆修供養塔

Daimokukochu Gyakushu Kuyoto

村内の題目講中が、講員の逆修供養のために寛文7年(1667年)に建てたもの。

鵜木大塚古墳

Unokiotsuka kofun

荏原古墳群のうち、最も東側にある古墳。旧鵜の木村の飛び地にあったので、「鵜の木大塚古墳」と名付けられた。古墳の一部は稲荷神社になっている。都指定文化財。

田園調布

Denenchofu

田園調布の住宅街は、渋沢栄一の計画により、大正7年(1918年)から建設された、日本で最初の住宅専用市街地。駅東側は主に商業地域として、また西側は住宅地として分譲されました。特に西側は駅を中心に放射状道路と同心円状道路が設定され、街灯、街路樹、上下水道などが配置された。また敷地と家屋の面積の割合、道路や隣家との間は生け垣を用いるなど、まちなみに自然との調和や、景観を保つための配慮がなされている。

浅間神社と浅間神社古墳

Sengen Shrine and Sengen Shrine kofun

北条政子が、信仰する富士浅間神社に、夫である源頼朝の武運長久を祈り、この地に持仏の観音像をまつったのが、この神社の始まりと伝えられている。社殿改築の際、5世紀末から6世紀前半にかけての人物埴輪や動物埴輪などが出土した。全長60メートルの前方後円墳と推定され、「浅間神社古墳」と呼ばれている。

亀甲山古墳

Kamenokoyama kofun

南武蔵を代表する多摩川流域最大の前方後円墳で、全長107メートルある。近年の多摩川流域の古墳研究から、4世紀後半の築造と推定されている。

宝来山古墳

Horaisankofun

多摩川流域最古の前方後円墳で、荏原古墳群の最初の首長墓。発掘調査から全長97メートルあまり、4世紀前半の築造と推定される。

庚申塔(田園調布五丁目 照善寺)

Koshinto (5-chome Denenchofu Syozenji temple)

照善寺内にある3基の庚申塔の年代はそれぞれ、寛文5年(1665年)、寛文12年(1672年)、元文元年(1736年)。

池上

歴史・史跡

加藤清正室層塔

Kato Kiyomasa Seishitsusoto

加藤清正婦人(正応院)の逆修供養塔で、寛永三年(1626年)に造立された。

前田利家室曹塔

Maeda Toshiie shitsusoto

前田利家婦人であり、加賀藩三代藩主利常の母である寿福院の逆修供養塔で、元和八年(1622年)に造立された。もとは十一層だったが、今は五層を数えるのみ。区指定文化財。

梵鐘

Temple bell

瑤林院が正保4年(1647年)に寄進した梵鐘を、正徳4年(1714年)、紀州粉川の鋳物師木村将監藤原安成が改鋳した江戸期の代表的形態を示すもの。戦災を受け、現在は鐘楼脇に置かれている。

日樹聖人五輪塔

Nichijuseijin gorinto

日樹の信奉者たちによって、寛永7年(1630年)以前に建てられた。区指定文化財。

経蔵

Kyozo

輪蔵形式で、内部には回転する八角形の書架があり、一切経が収められた。天明4年(1784年)に建てられ、経蔵内部の柱等には、江戸時代後期に江戸各地から参詣した人々の氏名や、経蔵の工事に関与した職人等の氏名が刻まれており、その信仰が広範に及んだことがわかる。区指定文化財。

狩野探幽の墓

Kano Tanyu's grave

狩野探幽(1602~1674年)は、狩野孝信の長男で、日本絵画史上最大といわれる狩野派の「中興の祖」といわれた。ひょうたんの形をしており、並ぶ顕彰供養碑には、探幽の事績が刻まれている。都指定文化財。

狩野孝信墓所

Kano Takanobu bosyo

狩野孝信(1571から1618年)は、永徳の次男で、探幽や尚信の父。墓石は宝筐印塔の形をしており、元和四年(1618年)に建てられ、設計、造立したのは探幽たちと考えられる。この一画は狩野派の墓所で、尚信の墓もある。区指定文化財。

日樹聖人供養塔

Nichijuseijin Kuyoto

本門寺15世日樹(1574~1631年)の33回忌の供養塔。久が原、池上周辺の信者たちが建てたもの。

京都三条大橋の欄干

Parapet of Kyoto sanjo ohashi

昭和9年(1934年)の室戸台風によって流出した、京都三条大橋の欄干が、めぐりめぐって現在曹禅寺内にある。

明治8年の町屋建築

Machiya construction in the 8th year of the Meiji Period

明治8年(1875年)に建てられた。店先に荷車などを止めることができるように工夫され、当初は茶店だったころの様子を今に伝えている。

川端茅舎旧邸跡

Kawabata Bosha kyuteiato

川端茅舎は、日本画の川端龍子の異母弟で、俳句で名をなした。旧邸跡の角に自作自筆の句碑がある。

馬込

歴史・史跡

大森貝塚(墟)

Omori shell mounds

明治10年(1877年)、アメリカの動物学者E・S・モースによって発見、発掘された日本考古学上最初の遺跡で、縄文時代後期(約3000年前)の遺物が出土し、国の史跡に指定されている。その発掘記念碑が、大田、品川の両区にそれぞれある。

八景坂

Hakkeizaka

その昔、この坂上からの眺めは素晴しく、近くは大森の海岸、遠くは房総まで一望のもとに見渡すことができたといい、そこから八景坂と呼ばれるようになったといわれている。

八景園跡

Hakkeien ato

明治17年(1884年)に開園し、郊外随一の遊園地として有名だった。明治35年(1902年)には皇后が行啓され、記念碑が加納久宜子爵邸跡(山王三丁目31番21号)に建てられた。

鐵道院鉄柱

Tetsudo-in shrine iron pole

明治45年(1912)に、当時の鐵道院の命によって鋳造された鉄柱。

大森射的場跡

Omori shatekiba ato

明治22年(1889年)から昭和12年(1937年)ごろまで、射的場として使われていた。「日本帝国小銃射的協会跡」の碑がある。

新井宿薬師寺堂・桃雲寺再興記念碑

Araijuku Yakusijido・Tounji saikou kinenhi

新井宿村と馬込村の一部を所領していた旗本木原氏が、村内の古寺を再興し、初代吉次の号「桃雲」をとって桃雲寺と名づけた。後世に伝えるために五代義永が、寛文4年(1664年)に建てたもの。桃雲寺は明治初年に廃寺となり、今では薬師堂だけが残っています。

新井宿薬師寺堂・富士講碑

Araijuku Yakusijido・Fujikohi

天保3年(1832年)に、富士講の中興の祖といわれる食行身禄の没後百年を記念して、新井宿村の富士講の人々が建てた。正面に富士山の尊称である「仙元大菩薩」、その下方に行衣を着た猿などが刻まれている。区指定文化財。

義民六人衆の墓

Grave of the righteous six people

新井宿村の農民は、延宝年間(1673~1681年)に領主の厳しい年貢の取立てに耐えかねて、村役人6人が直訴を計画。しかし事前に知られ、6人全員が斬罪に処せられた。村人が、父母の墓という名目で建てた墓石には、墓参すると義民六人衆を同時に供養できる工夫がされている。都指定文化財。

馬込文士村

Magome bunshi village

大正末から昭和初期にかけて多くの文士、芸術家たちが住んだ「馬込文士村」。尾崎士郎、石坂洋次郎、宇野千代、川端康成、北原白秋など。区は「散策コース」を設定し案内板、解説板を設置。

馬込城跡

Magomejo ato

東は北野神社(南馬込二丁目)、西は湯殿神社(南馬込五丁目)、南は臼田坂下(中央一丁目、中央四丁目)、北は区立馬込図書館(中馬込二丁目)までに及ぶ中世城郭。城の構えは周囲が急な崖で、周辺の谷に沼を配し、敵の侵攻に備えていた。特に西側の部分はかつて根古屋と呼ばれ、このあたりが城主の館の跡と伝えられている。

旧馬込小学校の時計台

Clock tower in old Magome Elementary School

大正14年(1925年)から昭和37年ごろまで、馬込小学校のシンボルとして親しまれてきた。小学校改築により現在地に移設された。

庚申燈籠(南馬込一丁目)

Koshintoro(1-chome Minami-Magome)

享保3年(1718年)に、馬込村久保谷の庚申講の人々が造立した燈籠型の庚申塔。竿石の正面に青面金剛立像と三猿が陽刻されている。竿石に青面金剛立像を彫った燈籠は区内では唯一のもの。

万福寺・茅葺きの山門

Manpukuji Temple・Thatched temple gate

万福寺の山門は切妻造り茅葺きの立派なもの。万福寺の裏には詩人、小説家として活躍した室生犀星の旧居があった。

万福寺・日待供養塔

Manpukuji Temple・Himachi Kuyoto

寛永15年(1638年)に、馬込村の人々により建てられた。近世初期によく見られる形式をした宝篋印塔。

富士講燈籠

Fujikotoro

文政7年(1824年)に、馬込村の富士講の人々が中心となって建てたもの。道しるべと常夜燈を兼ねている。区指定文化財。

磨墨塚

Surusumiduka

源平の宇治川の合戦で活躍した名馬「磨墨」は、この地の産であったとも、またこの地で死んだとも伝承されている。明治33年(1900年)に馬込村の人々により碑が建てられた。

松原橋

Matsubarabashi

日本最初の立体交差。日本で初めてできた幹線道路の立体交差が、昭和15年(1940年)に完成した、環状七号線と第二京浜国道の交差点。

六郷

歴史・史跡

多摩川渡し跡(六郷の渡し)

Tamagawa watashi ato (Rokugono watashi)

東海道における江戸の玄関口として、重要な渡し場だった。中世末から近世初頭にかけて何度も橋が架けられたが、貞享5年(1688年)の多摩川の洪水で流出して以来、明治になるまで渡し船が利用された。渡し跡の標識板は、渡し跡から少し離れた北野神社(仲六郷四丁目29番)にある。区指定文化財。

狛犬(六郷神社)

Komainu (Rokugo Shrine)

貞享2年(1685年)に六郷中町の人々が願主となり、現世と来世の二世安泰を祈って奉納した。区内で最も古いもので、石工は三右衛門と刻まれている。区指定文化。財。この他、六郷神社では都指定文化財である流鏑馬が毎年1月におこなわれている。 

江戸初期の梵鐘(宝幢院)

Bonsho in Edo early stage (Hodoin shrine)

延宝9年(1681年)に、鋳物師の椎名伊予守良寛が多摩川の河原で鋳造したと伝えられる。宝幢院の梵鐘は区内最古級の梵鐘として、江戸初期の作風をよく残している。

安養寺・古川薬師道道標

Anyoji Temple・Furukawa Yakushijido michishirube

延宝2年(1674年)に、東海道の雑色から多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべ。区画整理のため、安養寺の門前に移された。

安養寺・銀杏折取禁制碑

Anyoji Temple・Icho oritori kinseihi

光明皇后が、ここの薬師に銀杏を奉納して祈願したところ、乳の出がよくなったという伝説がある。そこで銀杏の下垂の「乳」を削り取る者が多かったので、その行為を禁止するため、元禄3年(1690年)五世栄弁によって、この石碑が建てられた。

安養寺・富士講碑

Anyoji Temple・Fujikohi

碑の表面には100に近い講紋、講名、講員名が刻まれていている。この碑のように多くの講名や講紋を刻んだ例は珍しく、富士講の分布を明確に示す資料として貴重。

六郷水門

Rokugosuimon

昭和6年(1931年)に竣工して以来、下水道が普及するまで、六郷用水の末流をはじめ、六郷や池上、矢口、羽田の一部の地域の生活用水の排水を処理した。水門に架かる橋の高欄の「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたもの。堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれたころの雰囲気を伝えている。

七辻

Nanatsuji

7本の道が1か所で交わる珍しい場所。信号もなく、ゆずり合っている。

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